ドル円相場の構造分析と2026年に向けた展望
金融政策の分水嶺と日本の構造変化を踏まえた、為替市場の包括的分析と将来予測
エグゼクティブ・サマリー
現状
ドル円市場は歴史的転換点を迎えています。日米金融政策の方向性の乖離、日本の国際収支構造の根本的変化、そして米国の政治・通商政策の不確実性が複雑に絡み合い、従来の相場観が通用しない新たな局面に入っています。
円安の構造的要因が強まる一方で、金融政策の転換点も近づいており、市場参加者は前例のない不確実性に直面しています。
目的
本分析の目的は、この複雑な環境を解きほぐし、企業と投資家に戦略的意思決定の基盤を提供することにあります。特に以下の3つの重要要素に焦点を当てています:
  • 日米金融政策の転換とその影響
  • 日本の国際収支構造の変容と構造的円安要因
  • 米国の政治・通商政策の不確実性とそのリスク
主要見通し
ベースシナリオ
140円台中心のレンジ、緩やかな円高圧力
  • FRB利下げ開始
  • 日銀緩やかな利上げ
  • 日本の構造的円売り需要が下値を支える
円安リスク
150円台後半~160円超
  • 米インフレ根強く
  • FRB利下げ後退
  • 追加関税でインフレ再燃
円高リスク
130円台以下
  • 米国リセッション
  • FRB大幅利下げ
  • 日銀金融正常化加速
複数のシナリオ分析により、2026年末までの為替相場を予測しています。ベースシナリオでは日米金利差の緩やかな縮小を背景に、140円台を中心とした推移を見込んでいます。しかし、各国の金融政策や地政学的リスクにより、大きく変動する可能性も排除できません。
最重要ドライバー
金融政策の非対称性
FRB利下げサイクルと日銀利上げサイクルの同時進行は歴史的な転換点です。米国では物価上昇の沈静化に伴い利下げフェーズへの移行が見込まれる一方、日本では30年ぶりのインフレを背景に金融正常化プロセスが加速しています。この政策の方向性の乖離が、基本的な円高圧力の源泉となるでしょう。
日本の構造的赤字
表面的な経常黒字の裏側で、貿易赤字とデジタル赤字による恒常的円売り圧力が強まっています。エネルギー依存と海外生産シフトにより貿易赤字が定着し、さらに海外IT企業へのサービス支払いの急増が円安要因として作用しています。この構造的問題は短期間では解決しない根本的な課題です。
米国の政治・通商政策
米国の保護主義的通商政策、特に関税政策の強化はインフレと経済成長に複雑な影響を与えます。対中関税の強化や広範な追加関税の導入は、世界的なインフレ圧力を高め、FRBの金融政策にも制約を課す可能性があります。これにより、円相場にも予測困難な影響がもたらされる恐れがあります。
米国経済の現状
3.0%
GDP成長率
見かけの強さ、内需は減速
2.7%
インフレ率
根強い物価圧力
4.1%
失業率
歴史的低水準
米国経済は表面的には堅調ですが、細部に注目すると複雑な状況が見えてきます。GDP成長率は3.0%と高水準を維持していますが、内需は徐々に減速の兆候を見せています。特に住宅市場や個人消費の一部セグメントでは冷え込みが顕著です。
インフレ率は2.7%と依然としてFRBの目標である2%を上回っており、サービス価格を中心に根強い物価上昇圧力が続いています。これがFRBの利下げ判断を複雑にしている要因となっています。一方、失業率は4.1%と歴史的低水準を維持しており、労働市場の堅調さが経済を下支えしています。
日本経済の現状
0%
GDP成長率
ゼロ成長、弱い内需
3.3%
インフレ率
目標を超える物価上昇
2.5%
失業率
構造的人手不足
日本経済は停滞と変化の混在する状況にあります。GDP成長率は実質ゼロ成長にとどまり、特に個人消費の弱さが目立ちます。実質賃金の低下が続いたことで消費者の購買力が低下し、内需の回復が遅れています。
一方でインフレ率は3.3%と、日銀の目標である2%を大きく上回る状況が続いています。これは単なる一時的な現象ではなく、賃金上昇や企業の価格転嫁姿勢の変化など、構造的な要因も含んでいます。失業率は2.5%と低水準を維持し、人口減少と高齢化を背景とした構造的な人手不足が続いています。この状況が日銀の金融政策正常化を後押しする要因となっています。
金融政策のダイバージェンス
FRBの利下げサイクル
インフレの沈静化に伴い、FRBは徐々に利下げサイクルへの移行を模索しています。ただし、根強いサービス価格インフレや雇用市場の堅調さから、急激な利下げは見込みにくい状況です。市場予想は2024年内に0.50〜0.75%の利下げを見込んでいます。
日銀の利上げサイクル
日銀は2023年3月の黒田総裁から植田総裁への交代以降、金融政策の正常化プロセスを着実に進めています。マイナス金利の解除、イールドカーブコントロールの廃止に続き、今後は段階的な政策金利の引き上げが見込まれます。

金利差縮小の影響:日米の金利差の縮小は基本的な円高圧力の源泉となります。現在5%程度ある政策金利差が今後2年間で2〜3%程度まで縮小する可能性があり、この動きは円相場に大きな影響を与えるでしょう。
日本の国際収支構造
表面的な経常黒字
日本の経常収支は表面上黒字を維持していますが、その内訳は大きく変化しています。第一次所得収支の巨額黒字が全体を支えており、これは過去の海外投資からの配当・利子収入が主な源泉です。しかし、この構造は円相場にとって必ずしもプラスに作用していません。
貿易収支の赤字体質
エネルギー依存度の高さと製造業の海外生産シフトにより、貿易収支の赤字体質が定着しています。特に原油・LNG・石炭などの資源価格上昇や円安進行は輸入金額を押し上げ、貿易赤字を拡大させる要因となっています。
デジタル赤字の拡大
海外IT企業へのサービス支払いが急増し、2024年には約6.7兆円の赤字(10年で3倍以上)に達する見込みです。クラウドサービスやデジタル広告、コンテンツ配信などの支払いが増加し、これが新たな構造的円売り要因となっています。
「戻ってこない円」
対外直接投資残高は20年で約5.8倍に急増していますが、海外で稼いだ利益の多くは再投資され、日本に還流していません。この現象は、有事の際の「円買い」圧力を弱める要因となっています。
購買力平価(PPP)のパズル
理論値と実勢の乖離
購買力平価(PPP)の理論によれば、同一の財・サービスは異なる国でも同じ価格であるべきとされます。OECDの計算によるドル円のPPPは約92~99円とされていますが、実勢相場は150円前後で推移しており、50%以上の乖離(円安方向)が生じています。
乖離の要因
  • 金利差と円キャリートレード:日米の大きな金利差が円売り・ドル買いの誘因となっています
  • 生産性格差の変質:かつての「生産性向上→輸出増→円高」の好循環が機能しなくなっています
  • 構造的円売り需要:貿易赤字やデジタル赤字による恒常的な円売り圧力が発生しています
この大きな乖離は一時的な現象ではなく、日本経済の構造変化を反映したものと考えられます。理論的には中長期的にPPPに収斂するはずですが、構造的要因が続く限り、完全な収斂は難しいでしょう。
米国通商政策のリスク
広範な追加関税
米国の保護主義的通商政策が強化される可能性があります。特に中国製品に対する60%の高関税や、その他の国からの輸入品に対する10%以上の追加関税導入が検討されています。これは世界貿易の流れを大きく変える可能性があります。
インフレ再燃
追加関税の導入は輸入品価格の上昇を通じて、米国内のインフレ圧力を再び高める恐れがあります。現在沈静化しつつあるインフレが再燃した場合、FRBの金融政策運営にも影響を与えるでしょう。
世界貿易収縮
保護主義的政策の拡大は、世界的な貿易縮小をもたらす可能性があります。これは日本のような貿易依存度の高い国にとって大きなリスク要因となります。
FRB利下げ抑制
関税政策によるインフレ再燃は、FRBの利下げ余地を制限する可能性があります。一方で保護主義による景気後退リスクは利下げ圧力となり、相反する力が働く状況が生まれる恐れがあります。
「有事の円買い」神話の変容
伝統的な論理
円は長らく「有事の通貨」として認識されてきました。その背景には以下の要因があります:
  • 世界最大の対外純資産国としての地位(約380兆円の純資産)
  • 地政学的リスク発生時の海外資産の国内還流期待
  • 安定した政治体制と先進国としての信頼性
揺らぐ安全資産の地位
しかし近年、円の安全資産としての地位は徐々に揺らいでいます:
  • エネルギー安全保障の脆弱性が露呈(資源価格高騰時に円安が加速)
  • 国際収支の悪化と構造的な円売り圧力の存在
  • 長期にわたる低金利の継続による資金流出
  • 「戻ってこない円」の問題(海外再投資の増加)
2022年以降の地政学的リスク高まりの局面でも円高が進まなかったことは、この変容を示す象徴的な事例です。今後も有事の際に自動的に円買いが進むという従来の前提は見直す必要があるでしょう。
ドル円シナリオ分析(2026年末)
1
ベースシナリオ:140円台中心
日米金利差の緩やかな縮小が進みますが、日本の構造的円売り需要が下支えとなり、140円台を中心としたレンジでの推移を見込みます。FRBは累計200bp程度の利下げを実施し、日銀は政策金利を1%程度まで引き上げるというシナリオです。
2
円安シナリオ:150円台後半~160円超
米インフレが根強く残り、FRBの利下げが当初予想より少なくなる場合、あるいは追加関税の発動によりインフレが再燃する場合には、日米金利差が維持され、円安が進行するリスクがあります。政治的不確実性も円安要因となる可能性があります。
3
円高シナリオ:130円台以下
米国リセッションが発生し、FRBが大幅な利下げを実施する場合、あるいは日銀の金融正常化が予想以上に加速する場合には、円高が進行する可能性があります。日米金利差の急速な縮小や逆転が起これば、130円を割り込む水準まで円高が進む可能性も否定できません。
企業の為替リスク管理への提言
ヘッジ戦略の多様化
高いボラティリティが予想される環境下では、従来の単純なフォワード契約だけでなく、より柔軟なヘッジ手法の活用が重要です:
  • 通貨オプション戦略の活用:コスト削減と柔軟性確保のバランス
  • レンジフォワード:一定レンジ内での有利なレートを確保
  • ノックアウト・オプション:コスト効率の高いダウンサイド保護
  • 複数シナリオに対応したヘッジ比率の検討
事業戦略への織り込み
為替リスクは単に財務部門の問題ではなく、事業戦略全体に組み込むべき要素です:
  • コスト上昇分の価格転嫁戦略の再検討
  • サプライチェーン多角化による為替リスクの分散
  • 調達先・生産拠点の見直しによる自然ヘッジの強化
  • 研究開発投資による差別化と価格決定力の向上
為替変動の振幅が大きくなる可能性を踏まえ、単一シナリオへの過度の依存を避け、多様なシナリオに対応できる柔軟な戦略構築が求められます。
投資家への示唆
短期的視点
金融政策への「期待の変化」に注目することが重要です。特に以下の指標が為替相場に大きな影響を与えるでしょう:
  • FOMCドットプロット:FRB理事の金利見通し変化
  • 日銀展望レポート:物価見通しと政策スタンス
  • 政治イベント:米大統領選挙や通商政策の動向
長期的視点
構造的要因の変化を見据えたポジショニングが重要です:
  • 円高方向への修正を見据えたポジション構築
  • 日米金利差の実質的縮小の進展度合い
  • 日本の構造改革進展:デジタル化、エネルギー政策
  • 生産性向上の兆しを見る(賃上げと投資の好循環)
投資家は一方向への過度な賭けを避け、複数のシナリオに対応したリスク分散型のポートフォリオ構築を検討すべきです。特に、円の極端な過小評価状態は中長期的には是正される可能性が高いため、徐々に円高に備えたポジションを構築することも選択肢となるでしょう。